自分は冷たい人間なのか?
昔からずっと感じていた、周囲との「温度差」
昔から、周りの人と自分との間に、どうしても埋められない温度差のようなものを感じていました。
学生時代、教室で誰が好き、誰が格好いいと友人たちが話す光景を眺めながら、自分だけがどこか冷めたような感覚がありました。
もちろん、話を合わせることはできます。
でも、その会話でみんなが感じている楽しさを、自分はまったく共有できませんでした。
「好きな人はいるの?」
「付き合わないの?」
「理想のタイプは?」
悪気のない質問だと分かっていても、苦痛でした。
曖昧に笑ってごまかしたり、適当に話を合わせたりしていました。
周囲の友人たちが恋愛を経験し、恋人ができたり別れたりして成長していく中、自分だけが取り残されているような感覚もありました。
「まだ本当に好きな人に出会っていないだけだよ」という言葉を信じようとして、期待して、やっぱり違ったと落胆する連続でした。
「感情が欠落しているのではないか」という不安
やがてそれは、自分に対する焦りと不安に変わっていきました。
周りの人が当たり前に持っている、誰かにときめいたり、性的に惹かれたりする感情が、自分にはどうしても見当たらないのです。
自分には何か大切な感情が欠けているのではないか。
そんなことを真剣に考えた時期もありました。
友人が恋愛相談をしてくれても、そういう気持ちになるものなんだと頭では理解できても、心から共感することはできませんでした。
だからこそ、普通というものから外れているような感覚が、どんどん大きくなっていったのです。
誰かから好意を向けられた時も、嬉しいというより先に戸惑いがありました。
相手は勇気を出して気持ちを伝えてくれているのに、自分は同じ熱量、同じ色の感情でその想いを返してあげることができません。
申し訳なさと罪悪感だけが残りました。
それと同時に、恋愛的な視線を向けられたり、恋人になることを前提とした距離感まで踏み込まれそうになると、どうしても強い嫌悪感を抱いてしまうこともありました。
相手を嫌いなわけではありません。
人としては大切に思っていても、恋愛という形になることだけは受け入れられない。
その感覚を自分でもうまく説明できず、好意を向けられて嫌悪感を抱くなんて、自分は冷たい人間なのかもしれないと、自分を責めていました。
「名前」との出会い
そんな中で出会ったのが、ネットで見つけた「アセクシャル」という言葉でした。
最初は半信半疑でした。
けれど、当事者の体験談を読み進めるうちに、「これ、自分のことだ」と思える出来事がいくつもありました。
恋愛や性愛に対する感覚、周囲との温度差、自分を責め続けてきた理由。
それまでバラバラだった点と点が一本の線でつながるような感覚がありました。
自分がおかしいわけじゃなかった。そのことを知れただけで、長年抱えてきた重たい荷物を少し下ろせたような気持ちになったのを覚えています。
もちろん、言葉を知ったからといって悩みがすべて消えたわけではありません。
それでも、自分を責め続ける必要はないと思えるようになったことは、とても大きな変化でした。
今、思うこと
今振り返れば、自分は決して冷たい人間ではなかったと思います。
ただ、大切にする方法や、心を通わせる方法が恋愛とは違っていただけです。
恋愛や性愛の熱は持っていなくても、友人を大切に思う気持ちがあります。
家族の幸せを願う気持ちがあります。
誰かの優しさに救われたり、美しい景色や音楽に心を動かされたり、好きなことに夢中になって胸が高鳴ることもあります。
自分の中には、確かに豊かな感情があります。
ただ、その向かう先が恋愛ではなかっただけなのです。
昔の私は、みんなと同じではない自分を変えようと必死でした。
でも今は、同じである必要はなかったのだと思えます。
人にはそれぞれ違う感じ方があり、違う幸せの形があります。恋愛をすることだけが人生を豊かにする方法ではありません。
これからも、自分の中にあるそのままの感情を否定せず、自分らしい人とのつながりや、自分らしい幸せを大切にしながら歩んでいきたいと思っています。